5月25日の日記

2006年5月25日 日常
メディアリテラシーってのには大きく分けて二つの定義があると思う。
一つは、メディアリテラシーをテレビとか新聞とかのマスメディアのみと捉える考え方、もう一つはメディアを抽象的に見て、この世にある全てのものはメディアになりうるとする考え方。
前者だと、情報の内容に重点が置かれることが多いと思う。社会問題、歴史問題、犯罪報道、これらがマスメディアによってねじ曲げられていないか、そういうところをに注意をする。
後者だと、メディアという媒体そのものに着目して、メディア(媒体)それ自体が、人に対してどのような影響を持つのか考えようとする。
しかし、前者をメディアリテラシーとして解釈してよいのか。
今、メディアリテラシーというと、前者のような情報の内容が客観的かどうかを注意することを学ぶこと、のように考えられていると思うが、
情報の内容に着目することは、結局メディアに目を向けていないことになるのではないだろうか。
原発の報道を例として挙げる。
原発の問題だと、大概のマスメディアは原発の反対派よりに番組や記事を構成する。
そして前者によるメディアリテラシーだと、原発反対の方ばかり報道して原発賛成の人たちをあまり報道しないから、この報道は客観的ではない、みたいな研究をするのだと思う。
けれど、これだと「原発」についての勉強しただけ、原発問題についての多面性を見ただけで、メディアについての性質を学んだと言えるのだろうか。
もちろん、こういった具体的な問題を通して帰納的にメディアを理解しようというなら問題ないと思う。
けれど、メディアリテラシーという学問をそういう風に捉えている人は少ないと思う。
後者の立場に立つなら、こういった具体的な問題を取り上げたとしても、テレビならテレビの特性を理解するための、新聞なら新聞の特性を理解するための手段であり、決して具体的情報の分析が目的になることは無いと思う。
そう、メディアリテラシーの二つの解釈の違いは、目的と手段が逆転していることなんだと思う。
前者のメディアリテラシーでは、情報の中身の分析が目的で、メディアは情報を分析するための手段に過ぎない。
後者のメディアリテラシーでは、情報の内容というのはメディアを理解するための手段に過ぎず、メディアそのものの特性を理解することが目的になっている。後者のメディアリテラシーは、哲学的にメディアを見ていると言えばいいだろうか。
こういう違いは、メディアリテラシーという分野がどこまでかというのが確定されていないから生じるのだろう。
しかし、前者のメディアリテラシーだって必要である。というか多くの人にとっては前者の意味でのメディアリテラシーの方が重要だ。
多くの人にとって、メディアそのものを目的とする、ここでは伝えることそのものを目的とする、と言い換えるが、伝えることそのものが目的になるなんてことはあまりない。
多くの人にとっては、情報の内容の分析のほうが価値のあることなんだから。
情報の内容の分析に重きを置く、前者の意味でのメディアリテラシーを、後者と比較して本当にメディアリテラシーと呼べるのかは疑問だけどね。

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