自分用のメモです。そもそも、タイトルにあるように基本的にこのブログの存在意義は「メモ」です。長文です。
メディアリテラシーにおける、情報とメディアの関係の捉え方
はじめに
メディアリテラシーは「メディアからの情報を批判的に受容する能力」と定義される。しかし、本当にそうなのか。メディアの性質そのものを研究することは必ずしも「情報を批判的に受け取る」ことにはつながらないのではないか。ここでは、メディアリテラシーとはそもそもどういう意味を含んでいるのかを検討する。
「メディアからの情報を批判的に受容する」とは
「メディアから流れてくる情報に対し批判的に向き合い、正しい情報を受け取れるようにする」という目的を達成するために、まず言われるのが、「メディアは真実の一面しか伝えないから、自分たちでメディアの伝えない事実を探らなくてはいけない」といったことである。
「メディアの伝えない事実を探る」ということは、メディアを通す前のもとの情報を探るということである。例えば、テレビによって原子力発電所の問題が放送されたとして、その番組を批判的に読み解こうとすれば、原子力発電所の問題そのものを調べなければならない。原子力発電所の建設に反対の立場であれば、原子力発電所は万一事故が起こったときに被害の規模が大きくなりすぎるといった主張をする。原子力発電所の建設に賛成であれば、原子力発電所は二酸化炭素などを排出せずクリーンなエネルギー源として日本の電力供給に貢献することができる、多くの税金が入ってくるのでその地域の活性化につながるといったことを主張するだろう。
このように社会の多くの問題は多面性を有しているが、メディアは様々な事情から、あるひとつの立場からしか報道しないことがある。メディアを批判的に受容しようとする場合、他の立場も理解することなどが必要である。前述の例で言えば、原子力発電所問題に関する対立構造を理解することが、「メディアの伝えない事実を探る」ということで重要である。そして、「メディアの伝えない事実を探る」ことは「メディアを批判的に受容する」ことにつながる。
だがここで、上述したような「メディアの伝えない事実を探る」ことや「メディアを批判的に受容する」といったことは、本当にそれだけでメディアリテラシーに分類してよいのだろうか。「メディアの伝えない事実を探る」ということはメディアから流れてくる前の、もとの情報を取り入れるという作業であり、上述の原子力発電所の例で言えば、原子力発電所問題の本質を探ることが、「メディアの伝えない事実を探る」ということになる。
メディアから流れてくる前の段階の情報を探ることで情報の真の姿を捉えようとすることは、極論すれば「メディアは存在しないほうがいい」という考え方に至ることになる。なぜなら、メディアとは情報を変質されてしまう存在であり、メディアを媒介しないで得られる情報を得られるならそれに優るものはないからである。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
この部分(メディア)が無い方が、情報の受け手にとっては生の情報が受け取ることができる。
「メディアが媒介しないで得られる情報の大切さ」を説いているのが小中学校でのメディア教育ではないかと思われる。小中学校などでは、テレビは視聴者が面白いと思うだろう情報しか提供しない、そのためテレビが伝えない情報も読み解くことがテレビに騙されないために重要なことである、ということを教える。
ここにも、「メディアは存在しないほうがいい」という考え方が含まれている。メディアというのは情報の受け手を騙す存在であり、教育の現場では生徒がメディアに「騙されない」ためにメディアの性質を教えているのである。つまり、可能であるならメディアを媒介しないで情報を受け取りたい、という考え方をベースにメディア教育は行われていると言えるのである。
A 元の情報 → メディア → 変質した情報 → 受け手
B 元の情報 → 受け手
Aの場合よりBの場合の方が受け手は「優れた」情報を受け取れていることになる。
小中学校のメディア教育では「変質した情報」に生徒たちが惑わされることを防ぐことを目的としており、Aの状態で生徒たちが情報をうけとることを想定している。教師たちにとって「変質した情報」は生徒を惑わせるものであり、Bのように「変質した情報」ではなく「元の情報を受け取ることができるなら、それに越したことはない、という帰結が導かれる。
メディアは「手段」か
小中学校でのメディア教育のように、メディアがスポットをあてない情報にも目を向けようとすることは「情報を正確に受け取るための能力を身につける」ということに集約される。小中学校のメディア教育での「目的」は「正確な情報を受け取ること」であり、メディアそのものは「手段」としかみていない。メディアというのは情報を得るための「手段」であり、正確な情報を得るためによりよい「手段」があるのならばメディアという手段を使わなくてもよいということになり、メディアの存在は絶対に必要なものとはされないのである。
(厳密に言えば、人は言葉や文字や紙など、何らかのメディアを通さなければコミュニケーションをとることは不可能なのだから、情報を得る上でメディアを完全に排除することはできないと言える。しかし、情報を媒介するメディアを少なくすることは可能であり、その意味で、メディアを手段としてみるなら、「メディアの存在は絶対に必要なものとはされない」ということは正しいと考えられる)
前述した「メディアの伝えない事実を探る」ということは正確な情報を受け取るために、なされることだと言える。
メディアは「目的」か
一方で、メディアそのものを「目的」として考えることもできる。メディアを「目的」として考えると、メディアの存在を前提として、メディアがあることで人々にどのような影響をあたえるか、あるいは社会の状況の中でどのようなメディアが生まれてくるかということを追求する。メディアそのものの性質を分析しようとするのである。ここでは、「メディアから送られてくる情報」はメディアそのものを分析するための「手段」となる。原子力発電所問題の例で言うなら、どのように原子力発電所について報道されているかを通して、当該メディアの性質を捉えようとするのである。原子力発電所は二酸化炭素を排出しないということが報道されてないから、このメディアは原子力発電所反対の立場の影響を受けやすい、というようにメディアの性質を分析するのである。そして、メディアそのものの性質を分析するということは、メディアリテラシーに分類されてよい。
メディアそのものを手段みるか目的としてみるかで、情報の捉え方が変化するのである。
メディア=手段 ならば 情報=目的 情報を正確に読み解くことが最終的な目標
情報 → (メディア) → 情報の受け手
メディアは副次的な存在。受け手がどれだけ正確に情報を受け取れるかが重要
メディア=目的 ならば 情報=手段 メディアそのものの性質を見極めるのが最終的な目標
(情報) → メディア → 情報の受け手
メディアの性質を追求する。情報はメディアの性質を分析するための道具。
もちろん、メディアを「手段」としてみるか「目的」としてみるかという考え方は重なり合う部分がある。
メディアを「手段」としてみるにしても、メディアそのものの性質を見極めることが無駄というわけではない。メディアそのものの性質を見極めることは、正しい情報を得ようとすることに資する。逆に、メディアを「目的」としてみるにしても、情報を正確に読み解くという作業は必要である。メディアがどの程度、あるいはどの面で情報を正確に伝えているかということを研究することは、メディアの性質を見極めることに貢献するからだ。メディアを手段とみるにしても目的とみるにしても、やるべきこととしては「情報を正確に読み解くこと」と「メディアそのものの性質を見極めること」の両者が必要なのである。
しかし、究極的な目的においては両者に差があるのではないかと思われる。情報を目的とするならば、情報そのものにアプローチしていかなければならず、メディアの性質を分析してもその先でどのくらい正確な情報を得られるかが重要であるし、メディアを目的とするならば情報そのものを分析した上で、メディアにどのような性質があるのが推察していかなければならない。
メディアリテラシーの定義
最初に述べた、メディアリテラシーの定義として頻繁に使われる「メディアからの情報を批判的に受容する能力」というのは、ここまで述べてきたことでいうところの、メディアを手段として捉える見解しか含んでいないのではないか。
メディアを目的として捉えるならば、メディアの存在を前提とするので、情報がどのように変質しようともそのまま受け入れる。ある情報がテレビや新聞、ラジオといったメディアによってそれぞれ違った形に変質したとしても、それらの変質した情報とメディアを介していない元の情報はすべて平等なのである。情報はメディアを分析するために必要な道具であるから、そこに優劣はない。
これに対して、メディアを手段として捉えた場合、「正しい情報」は一つだけでそれをつかむことが重要であり、メディアそのもの性質やメディアによって変質した情報は「正しい情報」を捉えるための道具となる。よりもとの情報に近い情報が「優れた情報」であり、変質して受け手を惑わせる情報は「悪い情報」とみなされる。
「メディアからの情報を批判的に受容する能力」と言った場合、変質していない真実の正しい情報を得ることが目的となっている。つまり、メディアを手段としてしか捉えていなのである。
「メディアリテラシー」の定義としては、「情報を批判的に受容する能力を身につけ、メディアそのものの性質を知ること」とするのが正しいのではないかと思われる。
メディア・テクノロジーとの関連
メディアの技術、たとえばインターネットを活用するためのノウハウやテレビであったらカメラの操作の仕方、今日ではデジタル技術が導入されつつあるがそれがどのように社会に生かされるかなどを習得するといった事柄はメディアリテラシーに分類されるが、このような事柄もメディアを手段としてみるか目的としてみるかによって意味づけが変わってくるのではないかと思われる。
メディアを手段としてみるならば、メディア・テクノロジーは、情報を正確に受け取るための道具ということになる。どのようなシステムで情報が流されているかを知ることを通して、より元の情報に近い情報を読み取ろうとするのである。
メディアを目的としてみるならば、メディア・テクノロジーを学ぶことはそれ自体が目的となる。そのメディアがどのような形で社会に影響を与えることができるのか、あるいはそのメディアが報道しやすい情報など、メディアの性質自体の解析とメディア・テクノロジーを学ぶことというのは重なり合う。
情報を発信するということ
メディアの側、あるいは情報を発信するという立場になったときに、どのように情報を編集するか。より正確に、効率よく情報を伝える場合には、情報を発信しようとする者は、その情報に関して詳しくなくてはならない。
例えば、「地方についての情報は、その地域のテレビ局が伝えたほうがより正確に伝わる」と言われるのは、地域のテレビ局が優れた機器を持っているからではなく、その地域について詳しく知っているからだと考えられる。地方のテレビ局は地域の情報について、中央のテレビ局より詳しいという点で、優れているのである。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
地方のテレビ局はこの点(情報)において中央のテレビ局より詳しい情報をもっているから、「地方についての情報は、その地域のマスメディアが伝えたほうがより正確に伝わる」と言われる。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
ここ(メディア)だけの組織体系や情報機器などに注目すると、中央のテレビ局と地方のテレビ局では、中央のテレビ局の方が優れていると思われる。
テレビ局などマスメディアは、情報を正確に伝えようとするなら、もとの情報について十分な理解をもたなくてはならない。確かに、メディアの性質を理解することも情報を正確に伝える上で重要であるが、自分たちが情報を媒介し情報を変質させる存在である以上、もとの情報そのものを分析し、受け手に正確な情報を伝えることを心がけねばならない。
具体的に原子力発電所の例で言えば、賛成派と反対派の主張について十分な比較検討を行うということである。いくら優れた情報機器を保有していたとしても、原子力発電所問題そのものについての知識が十分になければ、正確な情報を伝えることはできない。いわば情報を目的として、メディアを手段としてみている状態と言える。
まとめ
メディアリテラシーには「情報を正確に受け取るための能力を身につける(メディアを手段としてみる)」と「メディアの存在を前提として、メディアが与える影響やメディアそのものの性質を探る(メディアを目的としてみる)」という二つの意味がある。メディアリテラシーには二つの意味があることを認識し、どちらの意味でのメディアリテラシーなのかを常に意識することが、メディアを把握していく課程で必要であると考えられる。
メディアリテラシーにおける、情報とメディアの関係の捉え方
はじめに
メディアリテラシーは「メディアからの情報を批判的に受容する能力」と定義される。しかし、本当にそうなのか。メディアの性質そのものを研究することは必ずしも「情報を批判的に受け取る」ことにはつながらないのではないか。ここでは、メディアリテラシーとはそもそもどういう意味を含んでいるのかを検討する。
「メディアからの情報を批判的に受容する」とは
「メディアから流れてくる情報に対し批判的に向き合い、正しい情報を受け取れるようにする」という目的を達成するために、まず言われるのが、「メディアは真実の一面しか伝えないから、自分たちでメディアの伝えない事実を探らなくてはいけない」といったことである。
「メディアの伝えない事実を探る」ということは、メディアを通す前のもとの情報を探るということである。例えば、テレビによって原子力発電所の問題が放送されたとして、その番組を批判的に読み解こうとすれば、原子力発電所の問題そのものを調べなければならない。原子力発電所の建設に反対の立場であれば、原子力発電所は万一事故が起こったときに被害の規模が大きくなりすぎるといった主張をする。原子力発電所の建設に賛成であれば、原子力発電所は二酸化炭素などを排出せずクリーンなエネルギー源として日本の電力供給に貢献することができる、多くの税金が入ってくるのでその地域の活性化につながるといったことを主張するだろう。
このように社会の多くの問題は多面性を有しているが、メディアは様々な事情から、あるひとつの立場からしか報道しないことがある。メディアを批判的に受容しようとする場合、他の立場も理解することなどが必要である。前述の例で言えば、原子力発電所問題に関する対立構造を理解することが、「メディアの伝えない事実を探る」ということで重要である。そして、「メディアの伝えない事実を探る」ことは「メディアを批判的に受容する」ことにつながる。
だがここで、上述したような「メディアの伝えない事実を探る」ことや「メディアを批判的に受容する」といったことは、本当にそれだけでメディアリテラシーに分類してよいのだろうか。「メディアの伝えない事実を探る」ということはメディアから流れてくる前の、もとの情報を取り入れるという作業であり、上述の原子力発電所の例で言えば、原子力発電所問題の本質を探ることが、「メディアの伝えない事実を探る」ということになる。
メディアから流れてくる前の段階の情報を探ることで情報の真の姿を捉えようとすることは、極論すれば「メディアは存在しないほうがいい」という考え方に至ることになる。なぜなら、メディアとは情報を変質されてしまう存在であり、メディアを媒介しないで得られる情報を得られるならそれに優るものはないからである。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
この部分(メディア)が無い方が、情報の受け手にとっては生の情報が受け取ることができる。
「メディアが媒介しないで得られる情報の大切さ」を説いているのが小中学校でのメディア教育ではないかと思われる。小中学校などでは、テレビは視聴者が面白いと思うだろう情報しか提供しない、そのためテレビが伝えない情報も読み解くことがテレビに騙されないために重要なことである、ということを教える。
ここにも、「メディアは存在しないほうがいい」という考え方が含まれている。メディアというのは情報の受け手を騙す存在であり、教育の現場では生徒がメディアに「騙されない」ためにメディアの性質を教えているのである。つまり、可能であるならメディアを媒介しないで情報を受け取りたい、という考え方をベースにメディア教育は行われていると言えるのである。
A 元の情報 → メディア → 変質した情報 → 受け手
B 元の情報 → 受け手
Aの場合よりBの場合の方が受け手は「優れた」情報を受け取れていることになる。
小中学校のメディア教育では「変質した情報」に生徒たちが惑わされることを防ぐことを目的としており、Aの状態で生徒たちが情報をうけとることを想定している。教師たちにとって「変質した情報」は生徒を惑わせるものであり、Bのように「変質した情報」ではなく「元の情報を受け取ることができるなら、それに越したことはない、という帰結が導かれる。
メディアは「手段」か
小中学校でのメディア教育のように、メディアがスポットをあてない情報にも目を向けようとすることは「情報を正確に受け取るための能力を身につける」ということに集約される。小中学校のメディア教育での「目的」は「正確な情報を受け取ること」であり、メディアそのものは「手段」としかみていない。メディアというのは情報を得るための「手段」であり、正確な情報を得るためによりよい「手段」があるのならばメディアという手段を使わなくてもよいということになり、メディアの存在は絶対に必要なものとはされないのである。
(厳密に言えば、人は言葉や文字や紙など、何らかのメディアを通さなければコミュニケーションをとることは不可能なのだから、情報を得る上でメディアを完全に排除することはできないと言える。しかし、情報を媒介するメディアを少なくすることは可能であり、その意味で、メディアを手段としてみるなら、「メディアの存在は絶対に必要なものとはされない」ということは正しいと考えられる)
前述した「メディアの伝えない事実を探る」ということは正確な情報を受け取るために、なされることだと言える。
メディアは「目的」か
一方で、メディアそのものを「目的」として考えることもできる。メディアを「目的」として考えると、メディアの存在を前提として、メディアがあることで人々にどのような影響をあたえるか、あるいは社会の状況の中でどのようなメディアが生まれてくるかということを追求する。メディアそのものの性質を分析しようとするのである。ここでは、「メディアから送られてくる情報」はメディアそのものを分析するための「手段」となる。原子力発電所問題の例で言うなら、どのように原子力発電所について報道されているかを通して、当該メディアの性質を捉えようとするのである。原子力発電所は二酸化炭素を排出しないということが報道されてないから、このメディアは原子力発電所反対の立場の影響を受けやすい、というようにメディアの性質を分析するのである。そして、メディアそのものの性質を分析するということは、メディアリテラシーに分類されてよい。
メディアそのものを手段みるか目的としてみるかで、情報の捉え方が変化するのである。
メディア=手段 ならば 情報=目的 情報を正確に読み解くことが最終的な目標
情報 → (メディア) → 情報の受け手
メディアは副次的な存在。受け手がどれだけ正確に情報を受け取れるかが重要
メディア=目的 ならば 情報=手段 メディアそのものの性質を見極めるのが最終的な目標
(情報) → メディア → 情報の受け手
メディアの性質を追求する。情報はメディアの性質を分析するための道具。
もちろん、メディアを「手段」としてみるか「目的」としてみるかという考え方は重なり合う部分がある。
メディアを「手段」としてみるにしても、メディアそのものの性質を見極めることが無駄というわけではない。メディアそのものの性質を見極めることは、正しい情報を得ようとすることに資する。逆に、メディアを「目的」としてみるにしても、情報を正確に読み解くという作業は必要である。メディアがどの程度、あるいはどの面で情報を正確に伝えているかということを研究することは、メディアの性質を見極めることに貢献するからだ。メディアを手段とみるにしても目的とみるにしても、やるべきこととしては「情報を正確に読み解くこと」と「メディアそのものの性質を見極めること」の両者が必要なのである。
しかし、究極的な目的においては両者に差があるのではないかと思われる。情報を目的とするならば、情報そのものにアプローチしていかなければならず、メディアの性質を分析してもその先でどのくらい正確な情報を得られるかが重要であるし、メディアを目的とするならば情報そのものを分析した上で、メディアにどのような性質があるのが推察していかなければならない。
メディアリテラシーの定義
最初に述べた、メディアリテラシーの定義として頻繁に使われる「メディアからの情報を批判的に受容する能力」というのは、ここまで述べてきたことでいうところの、メディアを手段として捉える見解しか含んでいないのではないか。
メディアを目的として捉えるならば、メディアの存在を前提とするので、情報がどのように変質しようともそのまま受け入れる。ある情報がテレビや新聞、ラジオといったメディアによってそれぞれ違った形に変質したとしても、それらの変質した情報とメディアを介していない元の情報はすべて平等なのである。情報はメディアを分析するために必要な道具であるから、そこに優劣はない。
これに対して、メディアを手段として捉えた場合、「正しい情報」は一つだけでそれをつかむことが重要であり、メディアそのもの性質やメディアによって変質した情報は「正しい情報」を捉えるための道具となる。よりもとの情報に近い情報が「優れた情報」であり、変質して受け手を惑わせる情報は「悪い情報」とみなされる。
「メディアからの情報を批判的に受容する能力」と言った場合、変質していない真実の正しい情報を得ることが目的となっている。つまり、メディアを手段としてしか捉えていなのである。
「メディアリテラシー」の定義としては、「情報を批判的に受容する能力を身につけ、メディアそのものの性質を知ること」とするのが正しいのではないかと思われる。
メディア・テクノロジーとの関連
メディアの技術、たとえばインターネットを活用するためのノウハウやテレビであったらカメラの操作の仕方、今日ではデジタル技術が導入されつつあるがそれがどのように社会に生かされるかなどを習得するといった事柄はメディアリテラシーに分類されるが、このような事柄もメディアを手段としてみるか目的としてみるかによって意味づけが変わってくるのではないかと思われる。
メディアを手段としてみるならば、メディア・テクノロジーは、情報を正確に受け取るための道具ということになる。どのようなシステムで情報が流されているかを知ることを通して、より元の情報に近い情報を読み取ろうとするのである。
メディアを目的としてみるならば、メディア・テクノロジーを学ぶことはそれ自体が目的となる。そのメディアがどのような形で社会に影響を与えることができるのか、あるいはそのメディアが報道しやすい情報など、メディアの性質自体の解析とメディア・テクノロジーを学ぶことというのは重なり合う。
情報を発信するということ
メディアの側、あるいは情報を発信するという立場になったときに、どのように情報を編集するか。より正確に、効率よく情報を伝える場合には、情報を発信しようとする者は、その情報に関して詳しくなくてはならない。
例えば、「地方についての情報は、その地域のテレビ局が伝えたほうがより正確に伝わる」と言われるのは、地域のテレビ局が優れた機器を持っているからではなく、その地域について詳しく知っているからだと考えられる。地方のテレビ局は地域の情報について、中央のテレビ局より詳しいという点で、優れているのである。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
地方のテレビ局はこの点(情報)において中央のテレビ局より詳しい情報をもっているから、「地方についての情報は、その地域のマスメディアが伝えたほうがより正確に伝わる」と言われる。
情報 → メディア → 受け手
↑↑↑
ここ(メディア)だけの組織体系や情報機器などに注目すると、中央のテレビ局と地方のテレビ局では、中央のテレビ局の方が優れていると思われる。
テレビ局などマスメディアは、情報を正確に伝えようとするなら、もとの情報について十分な理解をもたなくてはならない。確かに、メディアの性質を理解することも情報を正確に伝える上で重要であるが、自分たちが情報を媒介し情報を変質させる存在である以上、もとの情報そのものを分析し、受け手に正確な情報を伝えることを心がけねばならない。
具体的に原子力発電所の例で言えば、賛成派と反対派の主張について十分な比較検討を行うということである。いくら優れた情報機器を保有していたとしても、原子力発電所問題そのものについての知識が十分になければ、正確な情報を伝えることはできない。いわば情報を目的として、メディアを手段としてみている状態と言える。
まとめ
メディアリテラシーには「情報を正確に受け取るための能力を身につける(メディアを手段としてみる)」と「メディアの存在を前提として、メディアが与える影響やメディアそのものの性質を探る(メディアを目的としてみる)」という二つの意味がある。メディアリテラシーには二つの意味があることを認識し、どちらの意味でのメディアリテラシーなのかを常に意識することが、メディアを把握していく課程で必要であると考えられる。
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