自分のことを否定されていると感じても、
他者に対して感謝して尊敬をし続けることができる人は素晴らしい。
人間は自分だけでは生きていけないから。
けれど、まだ人生の経験が足りないからか、自分のことを否定されたと感じたら、
尊敬とか感謝という感情はどこかへいってしまう。
未熟だな自分、と思う。
チーム全員が、「組織のため」と思って意見を言うとまとまらないときがある。
それをまとめるのが組織の上層部の仕事で、
「意見が出ることは組織の力になる」と思って意見を受け止めることが必要なのかもしれない。
けれど、余裕がないと意見を受け止めることができない。
そして、失敗すると「あの時、意見を聞いていてくれたら」って話になる。
ギリギリの選択をしていても、最終的には結果で判断される。
自分の判断は正しいと信じるしかなかった状況でも、結果によって批判されることが多い。
そうなると、精神的に追い込まれていく。
自分の判断は最善のものだったと思える度胸がほしい。
信頼できるから仲良くできるのではなく、
仲良くできたなら根拠がなくても信頼できることもある。
けれど、そういうことは大切なこと。
信頼できるから仲が良い、というチームは強いけど、
仲良くできたからお互いに信頼できている、というチームだって強い。
将来のことを保証してくれるわけでも、抱えている問題を解決してくれるわけでもないとしても、
心のどこかで見守ってくれて、少しでも支援をしてくれる人に対しては感謝しないといけないと言い聞かせる。
けれど、具体的に何かをしてくれるわけじゃないのに、いろいろ言ってくる人を不快に感じてしまうことがある。
そういう人に対しても、「支えてくれている」と思い感謝できる人間にならなきゃと思う。
でも、今はまだ無理。人間ができていないから、心に余裕がないと感謝できない。
誰かの利益を損ねてでも全体の利益を確保する、という決定をしなければならないときがある。
その決定に対して責任を負っている人は、利益を損ねた人からの冷たい視線を感じ、
責任のかかっていない人は、全体のため、と割り切ることができる。
利益を損ねた人が責任を負っている人を恨んでいないとしても、責任を負っている人が、「利益を損ねた人に対して負い目ができてしまった、借りができてしまった」と感じることは免れられない。
悩みがあったとして、その当事者は悩みが無くならない限り悩み続ける。
その悩みがある限り、時が経とうが別のことをしようが、悩みから解放されることはない。
悩むことから逃げられないから苦しい。
これは、悩みの当事者でないとわからない感情の一つだと思う。
好意でその悩みの解決を支援してくれる人がいたとしても、
その人はいつでも悩むことをやめることができる。
けれど、当事者は悩みという負担から逃れられない。ひどいときには、精神が蝕まれていくことになる。
苦しみをやわらげられる可能性はあるかもだけど、常に苦しみをやわらげられるという保証は無い。
末端の人とか、前線の二等兵みたいな位置づけの人ですら、
組織に対するやりがいとか愛着を感じているようなチームは強いと思う。
そういう、誰でもできるようなことですらみんなが進んで受け入れる、やりがいを感じることができる、そういう雰囲気を作るのはリーダーの仕事なのか。
リーダーがそういう雰囲気を作れれば問題ないが、無理なときもある。
個人個人が、一雑兵や一般市民の役割に徹することを受け入れる心を持てば簡単なのにと思ってはいけないのだろうか。
選択肢があることのありがたさに、選択肢があるうちは気付かない。
「逃げる」という選択肢があるなら、逃げられることができるうちは特にありがたいとは思わない。
逃げられなくなって初めて、逃げられる状況にあるというのは恵まれた状況、だということを認識する。
信頼されていないと感じても、動かなければならないときがある。
信頼されるかどうかとか信頼されていると感じるかどうかは状況によって違ってくるけど、
信頼されていないと自発的に動こうとは思えなくなる。
信頼されていないことが逆にモチベーションになれば良いけど、そうならないことも多々ある。
何かを任せるなら、多少の間違いがあっても許容したほうがいい。
そうしたほうが、任せられた人は信頼されていると感じるだろうから。
誰に対しても、「尊敬する」という気持ちを忘れてはならない。
例え相手が敵であっても、尊敬することはできる。
人を尊敬することは人生を豊かにする。それはわかっている。
けれど、尊敬する心をもてなくなることがある。
心が狭いから尊敬ができなくなるんだろうけど、そんなときはどうしようもない。
常に尊敬の心を持つことができるような器の大きい人間になりたい。
責任がかかると、どうしてもそれをやらなければならない。
もっと能力がある人だったらうまくできるかも、なんて考えるのは無意味。
やらなければならない人は決まっているのだから。
責任がかかると、その物事から逃げ出すことができなくなる。
責任がかかっていなければ、好きなときに手伝って、都合が悪ければ逃げ出すことができる。
見返りが無くともやらなければならないことがある。
見返りを求めるべきでではないこともわかっている。
けれど、やっぱり見返りが欲しいときがある。
それは、言葉だけでもいい。「ありがとう」という言葉だけでも、見返りとして受け取れたら、うれしい。
周りの人とコミュニケーションをとって仲良くした方が良いに決まってるし、その方がストレスが溜まりにくくなるから、
精神的にも楽になるってのはわかっている。
わかっているけど、心に余裕がない時は人と仲良くしようって言うエネルギーが湧いてこない。
エネルギーが湧いてこないのは自分自身の問題だが、疲れているとどうしようもなくなるときがある。
1対Nのコミュニケーションのとき、1の方は「N」より弱い立場にある。
「N」は1との関係だけ考えればいいけど、1は「N」の全ての人について考えないといけない。負担が全然違う。

2月25日の日記

2006年2月25日 日常
辛いと思うことが、独りよがりで精神的に弱いということを露呈するもので、できるなら自分自身の中で押し殺したいと考えても、辛いと思うことが感情の部分でどうしようもなくなることがある。

独りよがりな感情や精神的な弱さでさえも認めてくれると、心が安らぐ。うれしい。

2月24日の日記

2006年2月24日 日常
人によって性格も環境も違うんだから、悩みが全く同じってことはあり得ない。
みんな違った悩みをもっているんだから、それを認め合わないといけない。

似たような悩みをもった人だと、その悩みについて感情の部分まで共感してもらえる。
似たような悩みをもっていないと、理解はしてもらえても納得はしてもらえない。心のそこから頷いてもらえない。

2月23日の日記

2006年2月23日 日常
心の持ちようによって、幸せにも不幸にもなれる。
けれど、どうにもならないほど苦しく、心を制御できないときは、幸福になるような心理状態になれるはずがない。
心がそんな風になってる人に、「心の持ち方によって幸せになれる」なんて言うのは酷だ。

2月23日の日記

2006年2月23日 日常
正論は大事。
けれど、正論を曲げることを許容することが必要になることがある。
正論を曲げることに対する責任を認識して、その上で正論を曲げることに対して寛容でないと、どこかでひずみが生じる。

2月22日の日記

2006年2月22日 日常
自己開示すれば他人と親密になれるらしい。
けれど、自己開示するのが苦痛だったり怖かったりしたらどうすればいいのか。
経験からバランスをとっていくしかないのか。

2月22日の日記

2006年2月22日 日常
周りの状況が自分にとって厳しいものでも、
結局、自己責任というところに帰結するから、その状況に対応する義務がある。
これは正論。けれど、それだけじゃ精神的につらくなるだけ。

< 57 58 59 60 61 62 63 64

 

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索