4月24日の日記

2006年4月24日 日常
後輩が頑張ってるのをみて、ちょっと感動した。
自分が苦しんだことで、多分彼らも苦しんでいるんだろう。
でも、「手伝おう」と思って能動的に動いちゃいけない。
今、何かを作っていこうとしているのは彼らなんだから。
下手に何かをしようとしても、ただでさえいっぱいっぱいの後輩を混乱させるだけ。負担を増やすだけ。
彼らの決めたことに従い、その中で動く。
何かするにしても、彼らの決めた枠の中で動く。
とにかく、後輩の意図したことが実現するように動くだけ。

4月23日の日記

2006年4月23日 日常
努力というのは、成功への確率を高める作業。
けれど、努力して確率を高めたからといって100%に到達できるわけがない。
逆に努力しないで、確率が低くても成功することはある。
けれど、できることは努力することだけ。確率を上げることだけ。
だから、努力を怠ってはならないのだろう。

4月21日の日記

2006年4月21日 日常
自分まだまだ未熟だなあと思った。
遠慮すべきでないところで遠慮してしまった後悔がある。
自分を成長させるためには、自分の能力を試し続けないといけないのにね。
もちろん、やりすぎると精神的に参ってしまうけど、
今は自分の能力を試すだけの余裕があるんだから、
あと一歩頑張らなきゃ。

4月20日の日記

2006年4月20日 日常
今は大丈夫。
へこむことがあったとしても、自分の中で消化するだけの余裕がある。
自分と向き合うことができずに、精神的に追い込まれていく、ということはない。
将来、追い詰められることがあるかもしれないけど、
そういう状況を一度は経験したのだから何とかなる、
と信じている。

4月19日の日記

2006年4月19日 日常
自分の利益を優先して考えることのできる状況に感謝する。
いかに苦しくても、自分のことだけ考えていればいいという状況は幸せなことだ、
と思い直す。

4月18日の日記

2006年4月18日 日常
リフレッシュするなら、
能動的に自分が楽しいことをする時間と、
全く動かないでボーっとする時間を組み合わせるべき。
前者は、精神的なリフレッシュに効果的で、後者は、肉体的なリフレッシュに効果的だと思う。

4月17日の日記

2006年4月17日 日常
与えられた環境の中で、自分のベストを尽くすこと。
その環境が自分にとって厳しいものでも、
その中で頑張ることは自分の糧となる、と信じる。
もちろん、どうにも耐えられない状況だって存在して、
気持ちが切れてしまう状況もあるけど、
それでも、自分の心を立て直して挑戦し続ける。
とにかく、今できることを必死でやるだけ。

4月16日の日記

2006年4月16日 日常
同じものでも、時間が経てば見え方が変ってくることがある。
立場や状況によって、その瞬間が自分にとってどういうものなのかが変っている。
同じものでも見え方が変わって、いろいろなものの見方ができるようになることが経験なのだろうか。
そうならば、過去に見えたこと感じたことを忘れないようにしないと。
でないと、過去の経験を未来のために生かすことができない。

4月15日の日記

2006年4月15日 日常
どんな状況にも対応できるだけの経験が欲しい。
「我慢する」ための精神力はあると思うから、
環境に対して積極的に関われるだけの背景となる経験が欲しい。
意味のある経験を蓄積するために生きていく。

4月13日の日記

2006年4月13日 日常
肉体的な疲れは、精神的な疲れになり得るし、
精神的な疲れも、肉体的な疲れにつながる。

4月12日の日記

2006年4月12日 日常
自分に自信があれば、自分のやってきたことを肯定することができるのだろうけど、
自分に自信が無ければ、自分のしてきたことから眼を逸らしたくなる。
他の人ならもっとうまくやった、自分は失敗だらけだった、と思うと、
その時の自分がいかに必死であったとしても、落ち込んでしまう。
他人に見られたくない恥部となってしまう。
自分だけを基準に考えれば、多くの経験は人を豊かにするはずだから、
失敗だらけでも「自分の成長につながった」と言えるはずなんだけどね。

4月11日の日記

2006年4月11日 日常
メディアの話の続き。
マスメディアってのは、全ての情報を伝えるわけではないということを認識すべきなのだろう。
完璧に真実を伝えられるわけじゃなく、かといって全く誤ったことを伝えているわけでもない、一面から見た真実だけをマスコミは報道する。
これは、誰が悪いというわけではなく、ある事実の全ての面を伝えられるわけじゃないというマスメディアの性質として受け入れるしか無いのだと思う。
やっかいなのは、マスメディアは多くの人に影響を及ぼす力があるということで、
だからこそ、情報の受け手の側が、「マスメディアが伝えることは、真実の一面にすぎない」ということを認識することが重要なのだと思う。

4月10日の日記

2006年4月10日 日常
やらないで後悔するよりは、やって後悔したほうがいい。
そう思って、迷ったら行くという選択をし続けてきた。
少なくともそういうポリシーを持っていたつもりだった。
けれども、「迷ったら行く」というポリシーをもち続けていたら、
「退くのも勇気」という言葉の意味がわかった気がする。

4月9日の日記

2006年4月9日 日常
メディアの話のつづき。
マスコミが、ある問題の全てを報道できないとしても、
それは仕方の無いこと。
新聞に文字数制限があり、
テレビは1回の映像で視聴者にその番組を印象付けないといけないのだから、
マスコミが一つの事象の全てを報道できなくても責められることではない。
ここで間違ってはいけないのは、マスコミは事実の「一面」しか報道できないのであって、
嘘のことを報道しているわけではないということ。
ある真実の一面しか報道しないとしても、それは虚偽の報道ではない。
真実には色々な面があるのだから、切り口が自分たちの考えに合わないからといって、
それだけでマスコミを非難するべきではないだろう。

4月8日の日記

2006年4月8日 日常
自分のバランス感覚、どのことに重点を置いて行動するかを、
大抵の学生は自分で決めることができる。
けれど、社会人になったら、周りの価値観を押し付けられて、
その中で動いていかなければならないのだろう。
社会に出たら、自分が理不尽と感じる価値観に従って生きないといけない状況が生まれて、
自分の中での優先順位を考慮されることが少なくなる。
それが社会人として生きることの厳しさなんだろうと想像する。

4月7日の日記

2006年4月7日 日常
自分を顧みて反省することも必要だけど、
他人に対して卑屈になってばかりだと、心がもたない。
堂々としていながらも、反省する気持ちを忘れず自分を変えていくことができる、
そういうバランス感覚を身につけたい。

4月6日の日記

2006年4月6日 日常
今のマスコミは、民主主義に必要な、国民の間の情報の流通という使命を十分に果たしていない。
マスコミの報道は、民主主義社会において、国民が政治に関与するときに重要な判断の資料を提供するとされ、表現の自由としても保護されている。
しかし、本当にテレビや新聞などのマスコミは、民主主義に必要な、国民全体による情報の共有という使命を果たせているのだろうか。
多大な情報が世の中にあふれている状況では、情報の受け手に伝えるべき情報を情報の送り手がピックアップしている段階で、多くの人に知られることのない情報が生まれてしまう。
この関門をくぐりぬけ、情報の送り手によって「この情報は世の中に伝える必要がある」と判断されたとしても、それだけでは情報が世の人に本当に理解されたとは言えない。
例えば新聞が、世の中にある論点について一つ取り上げ、その中でも二つの立場からの見方を紹介したとする。
これだけやれば、その論点について十分に紙面で読者に伝えたように見えるが、果たしてそうだろうか。
新聞を1面使ってその論点を紹介したとしても、広告や写真を除けば総じて3000字分しか使えない。
単純に考えて、一つの立場の紹介に1500字。
大学生でレポートを書いた経験だけでわかるだろうが、3000字や1500字で伝えられる情報なんて本当にわずかである。
このような状況で、新聞が、ある一つの論点だけに限ったとしても、その論点について読者に十分に伝えることができた、とされる状況があり得るのだろうか。
テレビでも同様である。テレビは新聞と違って映像が使えるが、繰り返し見るものではないため、1回見ただけで内容がわかるような構成にしなければならない。そうすると、一つの番組に多くの情報を盛り込むことは難しい。
テレビや新聞などのマスコミは、その性質上、あまり多くの情報を伝えることができず、
そのために必要な情報をも伝えることができないということも多々あるのである。

4月5日の日記

2006年4月5日 日常
常に自分の持っている力を120%出そうとすること。
それを続けることが、自分を高めることにつながる。
自分と他人を比較することもあるけど、
一番大切なのは、自分が信じることをやり続けて、
能力を120%活用しながら、
自分の価値を高めていくこと。
結局、それしかない。
相対的に他人より勝ることが目的でも、それを怠ってはならない。

4月4日の日記

2006年4月4日 日常
組織のアイデンティティって、遺伝すると思う。
その組織の歴史とか人間とかで、アイデンティティって形成されると思うけど、
知らず知らずのうちにその遺伝子が伝わっていく。
人が入れ替わっても、大抵の場合、その遺伝子は組織のアイデンティティや性質というものを、
後の時代の人に伝えている。
それでも、時々、組織のアイデンティティとか性質とかが変るときがある。
そういうものが変ること自体は悪いことではない。
けれど、変えるには多大なエネルギーが必要。
それまでの、その組織の中の、歴史に由来する流れに反するだろうから。

4月3日の日記

2006年4月3日 日常
どんな場合であっても、
肩に責任がかかっている人の決定に対しては、
敬意をもって向き合うべきだ。
例えその決定が、消極的な理由によるものだとしても。

< 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64

 

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索