6月20日の日記

2006年6月20日 日常
メディアリテラシーには、
メディアを目的と見るか手段と見るかと言う、
二通りの定義のしかたがあると思っている。
人文学部の人の過去の卒業論文を読めば、
メディアの捉え方を二つに分けるのはアリだと証明できるかなと思った。
それなりに収穫はあったと思うけど、もう少し読み込みたい。

6月17日の日記

2006年6月17日 日常
あまり人と関わりたくない。
一人の時間の方が気楽で良いや。
人間、一人じゃ生きていけないってわかってるけど、
必要最小限の人間関係でいいよって思ってしまう。
生きていく上で、
辛いことはあるだろうけど、
全く無駄な経験って本当にあるのだろうか。
何となく過ごしていたら、それは無駄な時間なのか。
過酷な状況だったら、それはすごい経験だろうけど、
一見すると無駄な時間でも、後から考えると重要な経験をしたと思えることはあると思う。

6月7日の日記

2006年6月7日 日常
人と話すことは楽しいことだと思えるようになりたい。

6月6日の日記

2006年6月6日 日常
とにかく、自分を信じてやっていくしかない。
いい準備はしてきたのだから、失敗したら仕方ない。
自分に能力が無かったのだとあきらめる。
と、自分に言い聞かせて落ち着こうとする。
やっぱ他人のことでも放っておけないときがある。
嫌でも、他人の苦しみを自分の苦しみと置き換えてしまうときがある。
人と関わらなければそんなことは起きないだろう。
割り切りたい。もう自分とは関係ないと割り切りたい。

6月4日の日記

2006年6月4日 日常
とにかく、常に120%の力を出そうと頑張るだけ。
今、プレッシャーがかかっている。
そして失敗を恐れている。
けれど、プレッシャーがかかったり失敗を恐れたりしても、
それは幸せなこと。
自分のことだけを考えてればいいんだから。
自分の能力を試せるチャンスってのはそんなに多くない。
そして、そのチャンスに対して、100%向き合うことができるから、
プレッシャーを感じるんだ。
一つのことに向き合っていられる状況に感謝する。

6月1日の日記

2006年6月1日 日常
根拠が無くても信じることだって必要なのではないか。
例えば、社会人になれば、その人のことが全くわからなくても信頼しなければならない場面と言うのはあると思う。
何人かのチームで何かをしなければならない場面とか。
要するに、最初からチームメイトとなる人間が決まっている状況。
そんな時、もともとから根拠が無くても他の人のことを信じることができる人が集まったら、
仕事がやりやすいと思う。
けど、何にも無くても他人を信じるってのは難しいから、
コミュニケーションが必要なんだろうなあ、お互いを信頼しあうために。
人間って、コミュニケーションがとれれば、特に理由が無くても他人を信頼できるようになるものだと思うし。(逆に不信が募る場合もあるだろうけど)
けれど、自分は今、コミュニケーションをすることに疲れている。
人と話すことをものすごい負担に感じてしまっている。
このままじゃ駄目だ。なんとかしなきゃ。

5月31日の日記

2006年5月31日 日常
いつからか、人と関わるのが怖くなってる。
何もする必要は無いのに、何かしなければならない強迫観念にかられている。
だから、一人の世界に逃げ込む。

5月30日の日記

2006年5月30日 日常
誰も信じることができなくなれば、
自分の殻に引きこもるだろう。
誰にも心を許すことができない状態。
そんなところにはいたくない。
その心の状態は自分の問題だけどね。
どうしようもないものは、どうしようもない。
理想のチームの姿があるとするならば、
そのチームは信頼の蓄積で成り立っていると思う。
メンバーみんなが、全員のことを信じている。
現実にはそんなチームができるのは無理かもだけど。
もし、そういうチームがあるなら羨望する。
不信は不信を呼び、
信頼は信頼を呼ぶ。

5月27日の日記

2006年5月27日 日常
自分のことだけ考えて生きてればいいよね。
他人のために何かをやる義務なんてないし。
苦しんで、もう二度とこの苦しみは味わいたくないと思ったのだから。
わざわざ自分からその苦しみを引き受ける必要なんて全くない。

5月25日の日記

2006年5月25日 日常
メディアリテラシーってのには大きく分けて二つの定義があると思う。
一つは、メディアリテラシーをテレビとか新聞とかのマスメディアのみと捉える考え方、もう一つはメディアを抽象的に見て、この世にある全てのものはメディアになりうるとする考え方。
前者だと、情報の内容に重点が置かれることが多いと思う。社会問題、歴史問題、犯罪報道、これらがマスメディアによってねじ曲げられていないか、そういうところをに注意をする。
後者だと、メディアという媒体そのものに着目して、メディア(媒体)それ自体が、人に対してどのような影響を持つのか考えようとする。
しかし、前者をメディアリテラシーとして解釈してよいのか。
今、メディアリテラシーというと、前者のような情報の内容が客観的かどうかを注意することを学ぶこと、のように考えられていると思うが、
情報の内容に着目することは、結局メディアに目を向けていないことになるのではないだろうか。
原発の報道を例として挙げる。
原発の問題だと、大概のマスメディアは原発の反対派よりに番組や記事を構成する。
そして前者によるメディアリテラシーだと、原発反対の方ばかり報道して原発賛成の人たちをあまり報道しないから、この報道は客観的ではない、みたいな研究をするのだと思う。
けれど、これだと「原発」についての勉強しただけ、原発問題についての多面性を見ただけで、メディアについての性質を学んだと言えるのだろうか。
もちろん、こういった具体的な問題を通して帰納的にメディアを理解しようというなら問題ないと思う。
けれど、メディアリテラシーという学問をそういう風に捉えている人は少ないと思う。
後者の立場に立つなら、こういった具体的な問題を取り上げたとしても、テレビならテレビの特性を理解するための、新聞なら新聞の特性を理解するための手段であり、決して具体的情報の分析が目的になることは無いと思う。
そう、メディアリテラシーの二つの解釈の違いは、目的と手段が逆転していることなんだと思う。
前者のメディアリテラシーでは、情報の中身の分析が目的で、メディアは情報を分析するための手段に過ぎない。
後者のメディアリテラシーでは、情報の内容というのはメディアを理解するための手段に過ぎず、メディアそのものの特性を理解することが目的になっている。後者のメディアリテラシーは、哲学的にメディアを見ていると言えばいいだろうか。
こういう違いは、メディアリテラシーという分野がどこまでかというのが確定されていないから生じるのだろう。
しかし、前者のメディアリテラシーだって必要である。というか多くの人にとっては前者の意味でのメディアリテラシーの方が重要だ。
多くの人にとって、メディアそのものを目的とする、ここでは伝えることそのものを目的とする、と言い換えるが、伝えることそのものが目的になるなんてことはあまりない。
多くの人にとっては、情報の内容の分析のほうが価値のあることなんだから。
情報の内容の分析に重きを置く、前者の意味でのメディアリテラシーを、後者と比較して本当にメディアリテラシーと呼べるのかは疑問だけどね。

5月25日の日記

2006年5月24日 日常
メディアリテラシーというのは様々な分野に関係している。
当然、メディアと法律とが関わっている場面も多い。
古くは、チャタレー夫人の恋人事件とか、表現の自由に関わる憲法問題や、新しいところではニッポン放送対ライブドア事件での商法の解釈の問題とか、この二つの事件の判決は、マスメディアに多大な影響を与えている。

そもそも、何故メディアが重要なのか。
日本が民主主義をとっているからである。当たり前だが、民主主義では多数決の原理が取り入れられている。ということは、いかに多くの人の支持を集められるかが国を動かす上で非常に重要なのである。
今日では、マスメディアは多くの人に情報を発信することができ、多くの人に影響を与えることができる。
しかし、マスメディアの性質を知らない人が多い。マスメディアの性質を知らないで、情報を鵜呑みにすることがいかに危険なことか。
マスメディアは、情報で大衆をひきつけようとする。このこと自体は、マスメディアにも、例えば「視聴率」といった形で市場原理が働いているのだから、悪いことではない。
というか、何らかの商売をしている以上、顧客を満足させようとする努力は当然なされるべきで、「消費者」をいかに取り込むかを考えるのは自然なことだ。
だが、ここで注意すべきは、情報の受けてである視聴者、新聞なら読み手が、
マスメディアの送ってくる情報は「情報の送り手が、こういう見た方をすれば情報の受け手が面白いというように感じるだろうと思って、構成した情報」であることを認識していないことが多い、ということである。
極論すれば、私たちのところに入ってくる全ての情報は、「送り手によって再構成された情報」と言ってよいが、
マスメディアから送られてくる情報というのは、今言った「受け手がどのように感じるか」というところをかなり強く意識して、再構成された情報である。
そして、受け手を意識すると、複雑な話ではなく、物事を単純に捉えたり、身近な話に置き換えたりして情報の受けての共感を得ようとする。
何故このような方法で、情報の受け手の共感を得ようとするかというと、
ある情報に対して、元々その情報の分野について詳しいという人は世の中にそんなに多くないからである。
例えば、難しい経済の事件がニュースになったとする。しかし、その事件を「真に」理解しようとすると、かなりの専門知識が必要だ、とされてもマスメディアは事件の重大性からどうしてもその事件を報道しないといけないことになるかもしれない。
そのときに、マスメディアの人間が考えるのは、わずかな経済に対する専門集団よりも、経済には素人の一般大衆だろう。
人数が多いほうに評価されるために、マスメディアは若干情報の量を減らしても、一般大衆に受けるような報道をする。
何度も言うけど、マスメディアが悪いわけじゃない。
マスメディアがそういう情報の送り方をするのは性質上しかたのないことなんだから。
これらは、メディア表現行為論?で学んだこと。
それまで自分は、「真実とは違うとわかってるはずなのに、何で新聞は半分嘘を報道することがあるんだろう」と思ってた。
けれど、マスメディアは嘘を報道していたわけじゃなかった。
真実を、ある角度から切ったその一面を報道していただけだった。
ついでに言うと、自分の考え方も、ある角度から切ったその一面、に過ぎないと認識させられた。
そして、マスメディアの真実の切り口というのは、「いかに情報の受け手を満足するか」というテーマにある。
それが、マスメディアから流れてくる情報に共通する真実の一面なんだろう。
メディア表現行為論?では、実際に新聞を書くということをしたわけだけど、
新聞がいろいろな人の目に留まるということを意識したとき、
自分も、「いかに情報の読み手を満足させるか」ということを考えながら記事を書いたからね。実体験。
そして、取材したことが全て記事にできるとは限らない。
自分たちは取材したことが全て「真実」と感じて、全てを記事にしたい衝動に駆られるけど、
実際は、情報の受けてを意識しないといけないくて、どうやって読み手を楽しませる、感情移入してもらえるか、という観点から、
書いた記事を編集していかないといけない。
そもそも、新聞は字数制限が考えていたよりもきつかったので、
その中で、情報の受け手を満足させるというミッションを遂げなければならなかった。
そういった条件が重なれば、かなり限られた切り口でしか真実を見ることができない。
全ての人が、「真実、客観的」と納得するわけが無い。

そして、そんなマスメディアのあり方を規定しているのも結局は法律なんだな。
表現の自由を保障するといった次元だけではなく、放送法とかマスメディアを制度的に規定する法律の次元でも。
ライブドア事件のときなんか、商法がマスコミのあり方を問うたわけだし。
つーか、民主主義なんだから、国民→メディア→国会→法律や政治、という風に影響するし、
逆に政治家のパフォーマンスでメディアの報道が変ってくることだってあり得る。
民主主義を取る以上、メディアと政治・法律は切り離せないもののはず。

5月24日の日記

2006年5月24日 日常
見返りがあると、やっぱりがんばれる。
何か見返りがないと動かない、なんて意地汚いようだけど、
ご褒美があるとそれを心の支えにできる。
そして、心の支えがあれば、頑張ろうという気持ちになれる。
だから、何事にも見返りがある、見返りがあると思えるようにするのは、
かなり大切なことだと思う。
無駄に苦しむのは嫌だから、
安易に他人を助けようとするのはやめよう。
もう、自分には関係の無いことだし。
もう一度、苦しみを味わおうとは思わない。
二度とそんな経験はしたくない。
そういう辛さにさらされそうになったら、躊躇しないで逃げる。
自分が似たような経験をしたからといっても、
それは他人にとってはどうでもいいこと。
その人が少しでも望んでいることを手伝うことが重要。
自分の経験を語ったって仕方ない。
結局、その人と同じ立場になることは絶対に無いし、
その立場に戻るのは絶対に嫌なんだから。
卑屈だけど、自分に大きな被害が出ない程度に、その人を手伝う。
作り笑顔はつらい。
そりゃあ、ある程度の愛想笑いってのは社会を生きる上で必要なものだと思う。
けれど、作り笑顔が要求され続けるっていう環境は、
自分の心に余裕が無いとつらい。

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