12月21日の日記

2007年12月20日 日常
自分が成長するために必要かどうか、というのが一番の判断基準。
しかし、それ以外にも、これまで成長させてもらった恩とか信義を考えないといけない。
それに、何も変えないことで逆に成長できる可能性もある。
何かを変えたって自分の成長が保証されるわけじゃない。

12月19日の日記

2007年12月19日 日常
本質的ではない事柄によって、押しつぶされようとしている。
冗談じゃない。でも対策がわからない。
やっぱ自分だめだなー、生き方を変えていかないと、
いつまでも無駄に悩むことになる。
今日は、自分が何に対して向き合おうとしてるのかわからない。
やるべきことはやってるはずなのに、
後悔ばかりが襲ってくる。
何でだ。時が解決してくれるのか。
自分が発する言葉の一言一句が、それで良かったのか、それで正しかったのか不安になってしまう。
けど、そんなの気にしててもどうしようもない。

12月17日の日記

2007年12月17日 日常
自分が抱えているコンプレックスに怯えている。
多少良いことがあっても、そのコンプレックスを思い出すような状況になるとへこんでしまう。
ちゃんと向き合わないとなんだけどね。
他人に、自分のコンプレックスについて触れられたくないと思って、
びくびくする日々を過している。

12月16日の日記

2007年12月16日 日常
屈辱を受けることは、
自分を成長させることのできるチャンスでもある。
ただ、それはある程度余裕のあるときでないといけない。
余裕がないときに屈辱を受けると、屈辱を屈辱と思わない。
そのときやっていることで手一杯で、屈辱を受け止めるだけの心の余裕が無い状態だからね。

12月15日の日記

2007年12月15日 日常
他人に何かを求めるときに、
見返りを求めなくてよいと思えるほうが、人生充実するんだろうね。
何かを期待すると、期待が外れたときの反動が大きい。
見返りはいらないと思えて、ただ他人のために何かをすることが自分の心の充足につながるとするなら、
その方が楽だし、日常を明るく過せるんだろうね。
自分は、そんな域には達してないから無理だけど。
何かしらの見返りを求めてしまっている。

12月14日の日記

2007年12月14日 日常
あーーーーー、
やってもやっても不安はなくならない。
自分に才能がないという事実を突きつけられるのが怖い。
ま、それを突きつけられても逃げられないんだけどね。
たとえうまくいく確率が低くとも、
今はやれることをやり続けるしかない。
間違っているとしても、その都度修正して前に進んでいくしかない。
そして、これをやり続けないと、間違っていることにすら気付かない。

12月11日の日記

2007年12月11日 日常
何が良いとか、何が悪いとか関係なく、
とにかくそれが必要だった、ということ。
だから、なぜそれをやったのかと聞かれたら、
「必要だったから」というのが答え。
それ以上でもそれ以下でもない。

12月10日の日記

2007年12月10日 日常
組織に貢献しようとするとき、
自分が必要とされてると思えれば、結構頑張れるよね。
逆に、頑張ってるのに、自分が必要とされてると思えなければ、
その組織から心が離れてしまう。
正論を言えば、責任があるなら、必要とされてるか否かに関わらず、
頑張らないといけないのだけどね。

12月9日の日記

2007年12月9日 日常
努力して掴んだ結果も、
才能や運だけで掴んだ結果も、
価値としては同じなんだよね。
どんな形でもよいから結果を出せればほっとする。

12月8日の日記

2007年12月8日 日常
自分を好きになれなければ他人を好きになれないとか、
自分を信じれなければ他人を信じることなんてできないとかいうけど、
なんでだろうね。
自分のこと嫌いでも、他人のこと好きになったり信じれたりすると思うのだけど・・・。

12月7日の日記

2007年12月7日 日常
結構ぎりぎりのところで踏ん張ってる。
このまま今やっていることを続けていいのか。
やるしかないんだけどね。
結局最後は一人でやるしかない。孤独な戦い。
結果が出なかったら発狂するだろうな。

12月5日の日記

2007年12月5日 日常
たとえ嘘でも、自分のことを肯定する言葉をかけてもらえるとうれしいときがある。
この人は絶対に本心からこんなことは思ってない、とわかったとしても、
そういう言葉をかけてもらえることがありがたかったりするんだ。

12月4日の日記

2007年12月4日 日常
ここしばらくを振り返ってみると、
やるべきことはやっている。
エネルギーのほとんどを注ぎ込んでいる。
それでも、自分の出したい結果が出る気がしない。
気持ちを切らしたら駄目だけど、心が折れそうになる。
このまま続けていっても良い結果がでるのか不安になる。
そんな不安、感じてもどうにもならないけど。

12月3日の日記

2007年12月3日 日常
自己開示って結構エネルギーがいる。
でも、自己開示してないと、何かのはずみで周りの人と気まずくなることがある。
てか、自分は自己開示してなくて、それが原因で苦い苦い思いをしたことがある。
けどねー、自己開示ってどういうタイミングでやればいいんだろうね。
そして、どのていど自己開示しておくべきなんだろうね。
わからない。

12月2日の日記

2007年12月2日 日常
多分、自分がコンプレックスを感じてるのは、
頑張ったはずなのに何も得ていないのではないかということ。
全てにおいて中途半端なんじゃないか、そんな風に感じている。
11月30日付 日経新聞の報道「朝青龍が会見で謝罪、「大変なご迷惑を掛けた」」へのコメント:

朝青龍が追求すべきなのはただ一つ、「来場所の優勝」だろう。
まず、朝青龍がモンゴルでサッカーしてたことは、報道されてることが事実なら、朝青龍に落ち度があるだろう。
他の種類のスポーツ選手でも、例えば有名野球選手がシーズン中に怪我して、それで元気にサッカーして遊んでたら、やっぱりマスコミに叩かれるだろう。
けど、今回の朝青龍ほど大きな騒ぎになったかというと、疑問。
だって怪我するとか、試合を休むということについては、給料ダウンとか敗戦という形になって自分に跳ね返ってくるから。
それがある種の「制裁」でしょう。
プロだから、勝負の結果によって自分の価値が決まってくる。
じゃあ今回の朝青龍はどうしてこれほど大きな騒ぎになったのか。
それは「横綱としての品格」が求められてるから。
自分は、朝青龍に「横綱としての品格」を求めること自体は間違ってないと思う。相撲は国技だし、横綱はかくあるべし、みたいな考えがあってよいと思う。
けれど、それは相撲の取り組みで勝つことよりも重い価値を持つことなのか。
もちろん、両者は両立するものだから、両方求めたっていい。
けど、「横綱としての品格」と「取り組みでの勝利」だったら、圧倒的に後者が重要だろうと自分は思う。
だから、今回の騒動は、相撲においてある程度の価値はあるけど、それほど重要でない部分について注目されて起こったことだと感じる。
朝青龍が積み上げた勝利の価値を忘れたような報道が多かったしね。
けど、だからって重要でない部分に注目したマスコミを責める気にもなれない。
今回の騒動は、有名人に対してなら誰にでも起こりえる種類の騒動だった気がする。
芸能人でもスポーツ選手でも、有名になったらマスコミに私生活を嗅ぎまわられるのは、ある意味当たり前。
もちろん、私生活のことはスポーツ選手を評価する上でそれほど重要ではない。
今回の朝青龍の件では、その重要でない部分への評価が過剰だっただけじゃないか。「重要でない部分への評価が過剰」というのは、スポーツ選手の私生活の例のように、よくあることだと思う。本人が、今回の朝青龍のように、解離性障害になるほど精神的に参るというのは稀だろうけど。
まとめると、朝青龍は怪我をして相撲を休んだことの責任を、勝負の場でないところ(あまり重要でないところ)で取らされた、けれどその原因を作ったマスコミは責められない。(まとまってるかな?)
だから、朝青龍がやるべきことは、ただ「相撲で勝つこと」だと思う。
朝青龍に限らず全てのスポーツ選手は、勝つことこそが最も重要な己の価値の根源だろうから。
昨日の日記で、昔のことを考えないようにする、と書いたが、
なぜか思い出してしまう。
何でだろうね。そのときの友達に会いたいのかね、自分。
感謝も信頼もされていないと感じる状況にあって、その延長線上で出会い、共通の時間を積み重ねた人たち。
この人たちなら思いを分かち合える共感しあえるかもしれないとは思ったけど、その人たちに安易に弱みをみせることは厳禁だった。
ま、いまさら会ったってしょうがないんだけどね。

11月26日の日記

2007年11月26日 日常
今は、なるたけ余計なことは考えないようにする。
昔を懐かしむというか後悔するようなこと、考えを巡らすことも今は必要ない。
直面している現実に集中する。

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