サッカー韓国代表だった選手の、ロンドンオリンピックでの政治的なアピール行為が問題になっていますが、スポーツと政治の関わり方の一般論について書いてみたいと思います。

通常、スポーツと政治は切り離す必要があると言われます。その理由としては、「スポーツは政治的な主張とは切り離して楽しむべきもの」「スポーツと政治を結びつけると、スポーツが政治の代理戦争の場になってしまうからよろしくない」ということが言われています。
とても爽やかな論理です。確かに、こういう側面もあるのでしょう。

しかし、「スポーツが世界の中で生き残るため」という理由が、スポーツと政治を切り離す最も重要な理由なのではないかと私は思います。

誤解を恐れずに言えば、スポーツは生きていく上で絶対必要なものというわけではありません。しかし、だからといって誰も「スポーツは不要だからなくしてしまえ」とはいいません。これは、スポーツが人生を豊かにするからだと多くの人に考えられているからでしょう。

スポーツは人生を豊かにするために必要なものだ、そういう風に人々に考えてもらいスポーツへの支援をしてもらう必要があります。スポーツに対して支援をしてくれる人がいるなら、その支援はすべて受け入れたい。

その観点からいくと、スポーツが特定の政治的主張に肩入れすることはとても危険な行為なのです。特定のスポーツに肩入れするということは、反対の政治的主張をもつ人を排除するということです。

そして、スポーツが肩入れしている政治的主張と反対の政治的主張を持っている人は、簡単にスポーツを捨ててしまうでしょう。なぜなら、スポーツは生きていく上で絶対必要なものではないのだから。

サッカーや野球など一部の人気スポーツであれば、スポーツが特定の政治的主張と結びついても、反対の主張をもつ人々に完全に捨てられてしまうことはないかもしれません。しかし、多くのマイナースポーツは簡単に捨てられるでしょうし、人気スポーツでも支援してくれる人は減少するでしょう。

また、スポーツが特定の政治的主張に肩入れすることを許すと、オリンピックで各国は絶対に「勝てる」選手だけを出場させることになるでしょう。少なくとも、人々の目にはスポーツでの勝ち負けイコール政治的主張の勝ち負けと映ってしまいます。

各国は、自分の政治的主張が間違っていると人々にみられることを避けるために、負けるおそれがある競技には選手を派遣しなくなる。スポーツの勝ち負けで、本来的な政治的主張の正当性が左右されるわけではないのに。

負ける可能性のある競技に選手を派遣しないということは、負ける可能性のある競技に支援を行わないということです。そうすると、支援を受けることのできる競技は極めて限定されてしまうでしょう。

オリンピックで勝てない競技であっても支援を受けるためには、支援を受けるために制約があってはいけない。そのためには、スポーツが政治的な主張と結びついてはいけません。政治的主張のために、スポーツへの支援の幅が狭まることは避けなければならない。

そして、一回でもスポーツの中で政治的主張を行うことを認めてしまうと、際限なくスポーツの中で政治的主張を行うことを認めることになりかねない。「あいつはスポーツの中で政治的主張をしたのだから、自分たちにもスポーツの中で政治的主張をさせろ」ということを言われてしまう。

だから、スポーツでの中での政治的主張は徹底的に排除する必要があるのだと思います。政治的主張と結びついてしまうと、スポーツへの支援が減少し、スポーツ自体が社会の中で生き残ることができずに破滅しかねません。

自分はスポーツが好きでずっと観ていたいので、こういうことを書いてみました。


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