自分にできることは、
とにかく、どんな形ででも、自分を高めていくことだけ。
それをやり続けて、それでも結果が出なかったら、
仕方ないと割り切るしかない、
と自分に言い聞かせる。
例え楽しくなくても、楽しんでいるふりをすることがある。
ある程度は、全体のことを考えて楽しんでいるふりをするのは、ある種のマナーだろう。
けれど、楽しんでいるふりをしなければならない状況が何度も続くようだと、相当につらい。
そして、他人が本当に楽しめるような状況を作り出さなければならない人は、他の人の楽しんでいる「ふり」を見ることでさらにつらくなる。
高いところにある目標を目指すにしても、
そこへたどり着くには一歩一歩近づいて行くしかない。近道なんて無い。
わかっているけど、その現実から目を逸らすことがよくある。
常に、現状と向き合って、地に足をつけて進んでいかないと。

3月28日の日記

2006年3月28日 日常
メディアには人を魅了する力があると思う。
どうしてメディアは人をひきつけるのか、不思議だ。
多くの人に何かを伝えることそれ自体はそれほど魅力的なことなのか。
メディアを使いこなせれば、多くの人の心に一瞬でも影響を及ぼすということが容易にできる。
それが一種の快感を呼び起こすのだろうか。
けれど、本当に大事なのは伝えることそれ自体ではなく、
何を伝えるかその内容だと思うのだが。
自分にすべて選択権があって、その選択を間違えたとしても不利益を被るのは自分だけという状況なら、
そんなに大変ではない。自業自得と割り切れる。
苦しい状況、嫌な状況というのは、
自分に選択権があって、その選択を間違えたら自分に加えて周りの人間も不利益を被る場合か、
自分に選択権が無くて、外的要因による選択によって自分だけが不利益を被る場合。
自分に選択権が無くて、選択が悪いと自分に加えて周りの人間が不利益を被る状況ならば、
周りの人間と共に、その選択をした者に対して怒りをぶつけることができる。

3月26日の日記

2006年3月26日 日常
内容=自分が本当に見つめるべきもの。
良い結果=自分の心の支えとなるもの。
悪い結果=他人からの批判の対象となるもの。

3月24日の日記

2006年3月24日 日常
顔色を伺わなければならない人と伺われる人がいたとする。
顔色を伺う人は、そういう行為をしなければならないことに対してストレスを感じる。
けれども、顔色を伺われる人は、そのことに対して何とも思っていないか、顔色を伺われるのは当然と思ってたりする。
顔色を伺われるような状況になったときに、顔色を伺う人のストレスが増えないように応対すべきだろう。
自分の内面に積み上げたもの、それが経験。
自分の経験したこと、内面に何を積み上げたかは、他人に認めてもらうためのものではない。
自分の中で、確かな価値を感じる経験なら、それだけでかけがえの無いもの。
けれど、自分が価値があると思っている経験に対して他人が共感してくれるなら、とても喜ぶべきことだ。
学生のうちなら、人間関係がつらくなったらその中から逃げ出すことができる。
逃げ出せないこともあるけど、大概の場合は逃げ出せる。
でも、社会人になったら、どんなことがあってもそこにある人間関係と向き合わなきゃなんだろうな。
その人が経験してきたことやその人の性格によって、
同じものでもまったく違ったように見えるってことは十分ありうる。
人によって価値観の違いがあるということを再認識した。
他人の考え方を否定したいと思うこともあるけど、今は、考え方の違いを受け入れようと思える。

3月20日の日記

2006年3月20日 日常
「がんばれ」って励ますのは、状況によっては残酷な言葉になり得る。
「がんばれ」って言うのは、未来と向き合うように促す言葉でもある。
そして、「がんばれ」といわれると、現在の状況が辛くて前を向く気力が無くても、無理にでも未来と向き合わなきゃいけないって気になってしまう。
それは、状況によってはとても残酷。
「がんばってるね」と、過去に目を向けて今までやってきたことを認めることも、心の安定のために必要とされたっていい。

3月19日の日記

2006年3月19日 日常
親子とか恋人同士とか親友同士なら、
相手の苦しみを取り除くことが直接に自分の幸せになって、
見返りが無くても相手に尽くすことができる、そこには「自己犠牲」という観念すら存在しなくなることがある。
「ありがとう」とか「うれしい」とか言ってもらえなくても相手のために何かをしようと考える。
けれど、大多数の人間関係のなかでは、そんな関係にはならない。何か見返りを求めることが多い。
でも、何かを与える与えられるの人間関係がほとんどでもいい。
そして、何かを与えられたときに発する「ありがとう」などの単なる挨拶の言葉は、見返りの基本だと思う。
「ありがとう」と言われた人は、その言葉でほんの少し心が潤される。

3月18日の日記

2006年3月18日 日常
テレビでも言ってたことだけど、
挨拶はコミュニケーションの基本だ。
挨拶の良いところは、考えなくても発するべき言葉を決められること。
何でも良いから言葉を通わせると、少しだけでも相手と心が通った気になる。
言葉を発して心を通わせたいときに、挨拶が存在しないとすごく不便だと思う。
人間不信とか、一般に負の感情だと思われているものですら、
「それも自分自身」と割り切って受け入れることが一番よいかもしれない。
負の感情であっても、そういう感情が湧き出てしまうのは、不可抗力的な部分があるのだから。
人間不信に陥っても、「人間不信に陥った自分」を受け入れられるようになれればいいんだろう。
難しいことだろうけど。
人間不信に陥ると言っても、
それは、人間不信に陥っている人がどういう風に自分の人間関係を捉えるかによって発生している。
だから、つきつめれば、人間不信は自分の心の持ち方が悪い人が陥るものということになる。
つまり、人間不信に陥っている人は自分自身でその状態を抜け出すべきだということになる。
けれど、それがチームの一員ならば、他のチームメンバーがそういう人をケアすべきだろう。
それが「チーム」たるべき姿だろうから。

3月15日の日記

2006年3月15日 日常
理論のベースにある感情の違いを認識して、
初めて価値相対主義が理解できるのではないだろうかと思った。
価値観っていうのは、理論ではなく感情を出発点にしてるから。
自分が意識していなくても、相手にはプレッシャーになってしまう言葉がある。
無用なプレッシャーを与えるとストレスになるだろうから、
自分の言葉には気をつけないと。
イエスマンはいけないとか批判されるけど、
つらいときは、どんな形でも良いから自分を肯定してくれる言葉が欲しい。
例えイエスマンの発する言葉でも、考えを肯定してくれるなら、
ほんの少しだけど心が潤う。
自分だけじゃ生きていけないというのはわかっているけど、
人と関わりたくないと思うこともある。
バランスが大切なのか、人と関わりたくないと思ってしまうことを戒めないといけないのか。
自分のことを否定されていると感じても、
他者に対して感謝して尊敬をし続けることができる人は素晴らしい。
人間は自分だけでは生きていけないから。
けれど、まだ人生の経験が足りないからか、自分のことを否定されたと感じたら、
尊敬とか感謝という感情はどこかへいってしまう。
未熟だな自分、と思う。

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