故意に反則を犯すことをサッカーではプロフェッショナルファウルと表現することがあります。

 なぜ故意に反則を犯すことをこう呼ぶのか。それは、反則を犯すという選択がチームに勝利をもたらす場合があるからです。試合終了間際に、ゴール前でピンチになりかけたときに、DFが反則を犯して相手のFWを止めるという状況です。

 なでしこジャパンのワールドカップ決勝戦でもプロフェッショナルファウルがありました。延長後半終了間際に、DF岩清水がアメリカの選手をファウルで止めて退場になった場面です。あの場面では、アメリカのFWが日本ゴールに向かって突進していました。もし失点してしまうと、残り時間を考えると追いつくことは非常に難しいです。そこで、岩清水は自らが退場になるのと引き換えに日本の失点を防いだのです。もちろん、反則を犯してもPKにならないよう、岩清水はペナルティエリアの外でファウルしました。

 このように、サッカーではペナルティを受けてもなおチームが得る利益が大きいのでわざと反則を犯すことがあります。
 しかし、「反則によるペナルティを上回る利益を得る」という場面が、ほかのスポーツでは意外と見つからないです。もちろん、ハンドボールやバスケットなど、サッカーと同じような性質をもつスポーツでは、上記のような理由で反則を犯すことがあるでしょうけど。

 プロフェッショナルファウルと呼べるような反則はスポーツ全体の中でどれくらい生じているのか、注意して見ていきたいと思います。

つづき

 ここまで書いてきたとおり、ビデオ判定の導入にあたっては試合再開の方法についてしっかりと検討しなければならないのです。そして、その際には、存在しないはずのプレーを「仮定」するなど、そのスポーツには受け入れられない規定を設けるなどしなければならないかもしれません。

 個人的には、可能な部分について限定的にビデオ判定を導入するのが良いのではないかと考えています。
 たとえば、サッカーだったら、ファウルでないとされたプレーをファウルにする場合とか、ノーゴールとされたプレーをゴールにする場合などに限ってビデオ判定をするのです。これらの場面であれば、試合の再開方法で頭を悩ませる必要がありません。

 ちなみに、誤審もスポーツの一部といった観点からビデオ判定を否定する考え方もあります。これについては今回の主題ではないので書かないですが、気が向いたら書いてみようと思います。
つづき

 話は前後しますが、現行の日本のプロ野球ではホームランか否かの判定についてビデオ判定が導入されています。実はこれも試合をどこから再開するかという問題をはらんでいるのです。
 ホームランでないものがホームランだと判定される場合は良いのです。問題は、ホームランと判定されたものを二塁打とする場合です(現状ではビデオ判定の結果ホームランが取り消されると二塁打とされます)。
 これはプレーを「仮定」した上での試合の再開方法が規定されていることになります。足の速さによって、三塁打になるかシングルヒットになるか変わる可能性があるのに、一律に打者走者は二塁に進んだとしていることになるからです。

 この規定が違和感なく受け入れられているのは、以前からエンタイトルツーベースというルールがあるからでしょうね(ボールがフェアグラウンドでバウンドしてからスタンドに入ったら二塁打にするってルールのことです)。エンタイトルツーベースのルールにおいても、足の速さにかかわらずボールがフェンスを越えなかったら打者走者まで二塁まで進んだというプレーが仮定されていますが、当然のルールとして野球の一部となっています。
 このエンタイトルツーベースの応用だと考えることができるために、ビデオ判定の結果ホームランが取り消されたら二塁打になるという規定が自然に野球になじんでいるのだと思います。


つづく
つづき

 テニスの規定は若干特殊ですね。ビデオ判定をする際には、ボールが打ち返せたかどうか審判が判断することになるということは、存在していないプレーを審判が「仮定」するということだからです。選手が突如としてスーパープレーを行う可能性があるということなどを考慮しないのです。
 また、それまでのプレーを無効にできるレットという制度も、ビデオ判定の導入を容易にしていると思います。

 相撲は、競技の特徴からビデオ判定を導入しやすいと思います。行司の判定がなされるのは、ほとんどの場合一連のプレーが終了してからですからね。行司の判定の先にプレーが続いているという事態が考えられない。どちらが勝っていたか、あるいは取り直しとするかだけを判断すればよいから、どこから試合を再開すべきかということを悩むことがないのです。


つづく
つづき

 サッカーですべてのプレーについてビデオ判定を導入したらどうなるのでしょうか。
 ファウルを見逃した場合は問題ないと思います。ビデオ判定をして、本来ファウルがあったとされる位置からフリーキックで試合を再開すれば良いのですから。
 問題はファウルでないプレーをファウルであるとしてしまった場合です。その時はどのようにすべきか悩ましいです。ファウルであると誤審を受けたチームのフリーキックから再開するというのが一案かもしれません。しかし、攻撃側のチームにファウルがあったと判定→ビデオ判定の結果、誤審だとわかる→攻撃側のチームがゴール前のフリーキックを得る、ということになるのは守備側のチームはかなり不満でしょう。
 ゴールかノーゴールかのビデオ判定をする場合にも同じような問題が生じます。去年のワールドカップのイングランド対ドイツの試合を想定してもらえるとわかりやすいです。判定を覆して、ゴールであるとするならいいですが、ゴールがノーゴールであるとされたら、どのように試合を再開すればよいか簡単には結論がでなさそうです。

 テニスでは、ビデオ判定が導入されています。インかアウトかの判定にビデオ判定が使われています。この場合も、インの判定がアウトの判定になる分には問題がなさそうです。アウトの時点でプレーが途切れていたことになり、ポイントが入るだけですからね。
 アウトの判定がインとされたらどうなるのでしょうか。審判がアウトとコールすることにより選手がプレーを止めてしまった場合を考える必要があります。この場合は現状のルールでは、ボールを打ち返すことができなかったと審判が判断すれば相手のポイントとなり、打ち返せたはずなのに選手がプレーを止めたと考えられるときにはレット(そのポイントにおけるプレーがなかったことになる)になる(はず)です。


つづく


 どのスポーツにも審判がいますが、審判も人間ですのでミスをします。いわゆる誤審です。誤審があったときに、「ビデオ判定を導入すべき」ということが言われることがあります。そこで、ビデオ判定について書いてみたいと思います。

 私は、ビデオ判定の導入にあたっては、誤審があったと判明した時にどのように試合を再開するのかを決めておくことが重要であると考えています。

 「誤審によりプレーを止めるべき場面を見逃していた」という場面では、ビデオ判定をしても問題は生じにくいです。しかし、「誤審があったが、誤審の時点より後もプレーを続行させるべきだった」という場面では、ビデオ判定により判定を覆したときにどうするのかをしっかり考えておく必要があるでしょう。

 野球を考えればわかりやすいです。野球のすべてのプレーでビデオ判定がなされるとします。
 例えば無死走者一塁の場面で、センター前に小フライが上がり審判はフェアを宣告したが、ビデオ判定の結果ノーバウンドで捕球していたことが明らかになり打者はアウトになったとします。
 この場合どのようにして試合を再開するのがベストなのでしょうか。一塁ランナーは最初の審判の宣告を信頼して二塁にいると思いますが、ボールが一塁に転送されたらアウトになるというわけにはいかないでしょう。一連のプレーをすべて無効にして無死走者一塁の場面から始めるというのも、守備側としてはフライアウトを一つ損した格好になるので不公平感が残ります。

 これは、誤審が覆されたとしても、その新たな判定の先にプレーが存在していたはずだから起こる問題なのです。
 行われたであろうプレーを「仮定」するのも一つの方法かもしれません。上記の例では、審判がアウトと宣告したら一塁走者は元の塁に戻っているであろうと仮定して、一死一塁から試合を再開するのです。しかし、一塁走者は大きく飛び出していて、すぐに帰塁できるか微妙な場面でもそれでよいのでしょうか(ボールが一塁に送られてダブルプレーになっていた可能性がある)。やはり実際に行われていないプレーを「仮定」するのは違和感がある気がします。

 他のスポーツでのビデオ判定でも同様な問題が生じ得ます。


つづく









 てか文章が長い。もっと短くしたいのですが。端的な文章でスパッと言いたいことを伝えられるようになりたいです。


浦和対柏の試合をテレビで観戦しました。

 前半のうちに柏が2点を先行したのですが、内容でも柏が相当押してました。ボールを奪ってからの攻撃が鋭く、チームとしての約束事が徹底されているんだろうなあと感じました。これに対して浦和は効果的な攻撃ができません。局地的に柏の守備を崩すことはあるのですが、それをチャンスを作り出すには至りません。
 後半の立ち上がりは浦和が攻勢をとり1点を返します。しかし、それ以降は浦和がボールを保持するものの柏はしっかりと守備を固め、浦和の攻撃を跳ね返し続けます。逆に、柏の攻撃時に浦和キーパーのミスが出て柏が3点目を挙げて試合を決定づけ、そのまま3-1で試合終了。柏の勝利&優勝となりました。

 サッカーに限らず、リーグの最終戦というのはわくわくします。優勝など大きなものがその試合にかかっていることが多いからです。なので、今日の浦和対柏の試合も高揚感を得ながら観戦することができました。
 しかし、リーグ戦というのは積み重ねなんですよね。最終戦の結果によって優勝の行方が変わってくるかもしれませんが、それは最終戦の結果(あるいはラスト数試合の結果)だけではなく、リーグ戦全体を通じての結果です。

 最終戦、あるいはリーグの終盤戦だけをみてすべてを評価してしまうことがありますが、それは間違えているでしょう。リーグ戦は全試合を全体的にみて評価しなければなりません。
 と、自戒を込めて書いておきます。


つづき

 身体能力差があるなら、それに応じて競技のルールや規模を変えた方が良いと思うのです。

 大人のプロの試合を見て、それに子供たちが憧れるとします。しかし、実際にやってみると子供の身長や身体能力ではおよそ不可能な(あるいは、現れにくい)プレーが存在してしまうのです。

 野球では、「ライト前ヒット」が現れにくい、ハンドボールではボールが片手でもてない、バスケではダンクシュートができない・・・。子供たちは大人のやるスポーツのミニチュア版を体験したいはずなのに、同じスポーツでもその質が変わってきてしまっています。
 なので、個人個人の身体能力にあわせて細かくルールや規格などを変えた方が、どんな人もプロのやるスポーツの面白さをそのまま体験できて良いのではないかと思うのです。
 

 もちろん、統一したルールや規格にしていることにも理由はあります。同じスポーツについて細かく規格を変更するとすることは難しいでしょう。また、選手の育成という観点からは、早い段階から大人の規格でプレーさせたほうが良いに決まってます。
 そもそも、競技の質が異なってしまっても、それはそれで子供たちは楽しんでいるのだからそれで良いという意見もあるでしょう。

 ただ、それでも、大人のするスポーツの魅力をそのまま体験することには意義があるのではないのかと思ってしまうのです。

つづき

 ハンドボールでもサッカーと同じような違いが出ます。子供の場合コートの広さが大人と比べて相対的に「広く」なります(そのため、子供の試合では見られる「速攻」が大人の試合では見られない気がします)。
 子供は手が小さいので、ボールを片手で持てずにプレーの幅が狭くなっている点も見逃せない点です。

 バスケットボールは、背が高い人の方がゴールに近いので違いが分かりやすいですね。子供は背が小さい分だけゴールするのが難しいです(ちなみに、バスケットは中学校以降は大人と同じゴールの高さでプレーするはずです)。

 バレーボールは、比較的そのあたりの違いに対応しています。中学校か高校か一般の大人かによってネットの高さが違ってきます。加えて、男女によってもこれを変えるようにしているはずです。

 これらのことを通じて何が言いたいのかは、次で。

つづく
子供と大人の身体能力差について

 子供がやるか大人がやるかで、そのスポーツの質が変わってくることがあります。もちろん、基本的なルールは変わりません。しかし、子供と大人で身体能力が違うためにプレーの幅が変わってくることがあるのです。

 例えば、野球。少年野球には「ライトゴロ」が結構あります。子供の力では、遠くにボールを飛ばせない(から外野手はかなり内野に近いところに位置どる)ので、ライトにボールが転がるとそのまま一塁に転送されてバッターランナーがアウトになってしまうのです。

 例えば、サッカー。サッカーでは中学校以降は大人と同じ大きさのピッチでプレーします(そのはず)。そうすると、どうしてもパスやクロスが相手に到達するまでの時間に差がでてしまいそうです。
 

 男女差の話になりますが、先の女子ワールドカップの決勝戦。PK戦でのシュートのスピードが男子に比べて遅かったと思います(ある意味当たり前ですが)。女子サッカーでは男子サッカーに比べてPKが決まる確率が低いのではないでしょうか(それでもPK戦の本質は失われていないので問題はないですが)。
 このような男女差による現象は、大人と子供の差においても同様に現れそうです。


つづく

メンタル

2011年11月28日 スポーツ
メンタルについて。

 何でもよいのでスポーツをやったことがある人ならわかると思いますが、スポーツにおいてメンタルは重要です。「自分が勝つ」とか「自分は良いプレーができる」と信じることができる方が、現実に良いプレーができます。

 それで、ふと思ったのですが、生まれてからそのスポーツにおいて負けを経験したことがない、挫折を味わったことがない人は、完璧なメンタルを備えていることにはならないのでしょうか。
 挫折を経験したことで強くなれたという話はよく聞きますが、それはマイナスの精神状態を経験したということの裏返しでもあります。
 挫折したことがなく、負けたことがない人であれば、弱気になってプレーが縮こまってしまうということは皆無なのではないでしょうか。なぜなら、自分はずっと勝ち続けているのですから、自分のプレーを信じることが容易であるからです。

 もちろん、こんなことは机上でしか語れないということは理解しています。プロスポーツの世界は厳しいですから、一流選手でも一度は挫折や敗北感を味わうことがあるでしょう。

 けれども、もし「勝利しか知らない選手」が存在するとするなら、その選手は理想的な精神をもっているのではないかと考えてしまうのです。


昨日の続き

 バスケットボールやハンドボールは、試合終盤になっても戦い方が変わりにくいです。負けている方が、守備時にボールを積極的に奪いに行ったり、早めにシュートをしようとすることはあるかもしれないですが、それぐらいでしょう。
 攻撃側がリードを守りきるために時間稼ぎをすることはないはずです。「攻撃の意思なし」という反則があるためです(でも、うまいチームは、「攻撃の意思なし」の反則がとられない程度に時間をかけた攻撃をしたりしてるのでしょうか)。少なくとも、サッカーのようにあからさまにリードを守りきろうとする戦い方はできないできません。

 ラグビーも同様で、戦い方は変わりにくいです。勝っている方がリードを守り切ろうとするには、陣地を広げるためのランニングとパスをすることが一番ですが、これはまさに通常時の作戦と同じです。負けている方も同じで、トライを奪うために陣地を広げようとするしかありません。どちらも試合を通じて陣地を広げるための作戦を繰り返すのみなのです。
 ただし、点差が僅差ならば、負けているチームはドロップゴールを狙うということはあるかもしれません。ドロップゴールは、通常は狙わない(はず)なので、これは試合終盤の作戦といえるかもしれないですね。

 テニス、卓球、バレーなどは、試合終盤でもほぼ戦い方は変わらないです。これらは、ある一定の得点をどちらが先にとるかという競技です。そのため、純粋にポイントの積み上げの先に勝敗という結果があるという性質を有し、序盤でも終盤でも同じようにポイントを奪いに行くしかないのです。

 ここまで考えてくると、野球やサッカーの監督が采配を批判されることが多いのが分かる気がします。
 もちろん、この2つの競技は人気があるので、その裏返しというのはあるかもしれません。しかし、采配が批判されるのは、監督の指示が試合の勝敗に直結している(ように見える)点が大きいのではないのでしょうか。
 前に述べたように、野球やサッカーは試合終盤に戦術を変更する余地が大きく、その判断は監督によりますからね。試合終盤という緊迫した場面で、監督の判断でチームの戦い方が変わるのですから、監督の采配で勝敗の行方が決まっているようにみえるのも無理はないかもしれません。
 

スポーツ全般について。

 各競技における試合終盤の戦い方について書いてみようと思います。
 試合終盤ということは、もう少しで勝敗がつくということです。なので、当然のことながら、負けている方は追いつくための策を、勝っている方は逃げ切るための策を講じることになります。
 では、具体的には、各競技の試合終盤ではどのような戦い方がなされるのでしょうか。

 まずは野球から。
 点差が僅差の場合、勝っているチームは守備時には前進守備を敷いて1点も相手に与えないようにし、攻撃時には送りバントなどを用いて1点でも良いから点差を広げようとするでしょう。負けているチームも1点が重要が考えて、守備時には前進守備、攻撃時には送りバントを多用するでしょうね。
 点差が大差の場合は、こうはならないですね。勝っているチームは、1点や2点なら相手に与えてよいと考えて、通常の守備網を敷くでしょう。負けている方は大量点を取る必要があり、送りバントで相手にアウトを献上する余裕はないので、小細工せずに打っていくしかないです。
 点差が3点差くらいだと微妙ですね。上記のどちらの考え方もできそうな点差ですから。監督の作戦選択の判断も難しくなりそうです。

 次はサッカー。
 サッカーはわかりやすいですよね。勝っているチームは、守備に人数をかけて、ボールを奪っても無理に攻め込まずボールキープをして時間を進ませる。負けているチームはとにかく前からボールを奪いに行き、ボールを奪ったら素早く攻め込む。攻め込む方法は、パスをつないでいくのか、それともパワープレーでいくのか、チームによって違ってくるでしょう。

 野球とサッカーから述べましたが、この二つのスポーツは試合の終盤になると作戦が変化しやすい競技だと思います。試合の終盤になっても戦い方が変化しない競技もたくさんあります。

つづく


バレーの話。

今、バレーの世界大会をやってますね。
個人的には、バレーはラリーが続く方が好きです。両チームが粘ってなかなかポイントを与えないような試合です。

でも、男子のバレーは女子のバレーと比べてラリーが続いてない気がします。男子の方が身体能力が高いから、スパイクが決まりやすいからなのでしょうが・・・。

男子バレーも、ラリーが続くようにするために何らかのルール改正したらいいのになあと思うのです。たとえば、ネットの高さをちょっと高くするとか。ネットの高さを高くするだけでもスパイクが決まりにくくなってラリーが続くようになる気がするのですが。
そんな単純なものではないのでしょうか。

暇なときに調べてみます。


サッカー、J2の話。

J2は残り2試合。既にFC東京が優勝を決めており、あとはJ1昇格圏である3位以内の争いが残るのみ。

現在の順位は、

2位 鳥栖 勝点65 得失点差+31
3位 徳島 勝点65 得失点差+17
4位 札幌 勝点62 得失点差+14

となっている。
対戦カードでいえば、次の試合で鳥栖と徳島が直接対決をすることになっている。

 次の試合の結果によって、各チームの最終戦の戦い方は変わってくるだろう。
 札幌が次の試合に負けたら、最終戦で勝ったとしても勝点65にしか伸ばせない。次の試合で鳥栖と徳島が引き分けたら札幌はもう3位以内にはなれないし、得失点差で劣っているので、最終戦では2点差以上の勝ちが求められることになる可能性がある。

 ここで注目すべきは次の試合が行われる日時。札幌の試合は次の土曜日に行われ、鳥栖と徳島の試合は日曜日に行われる。この日程は相当に札幌に不利ではないだろうか。鳥栖と徳島は、札幌の試合結果をみて自分たちの戦い方を決めることができるからだ。
 だから、リーグ戦は最終戦だけでなく、その前の試合も同時キックオフにすべきだと思ったのだが、難しいんですかねえ。





と、いった感じでいままでとは全然違うスタイルで日記を書いて行きたいと思うので、よろしくお願いします。

11月23日の日記

2011年11月23日 日常
日記に書くことを、がらりと変えようかなあと考えています。
スポーツが好きなので、ダラダラと興味をもったスポーツの話題について書いて行こうかと。
いつまで続くかはわかりませんが。
能力があって自信にあふれている人の考えと、能力がなく自信もない人の考えは異なる。
能力があれば、成功した時のことだけをイメージできる。
自信がなければ、失敗したときのことも想定する。
日記どころか月記になってる。

なんかねー、悩みがなくなったわけではないけど、あんまり悩んでもしょうがないかなー、と思う今日この頃。
なるようになるさっていう思考になってきてる。
過去のことを反省することもあるし、後悔することもある。
けれど、大切なのは「現在」なのだ。
「現在」何ができて何をすべきなのかを考えなければならない。
失敗を検証することは必要だけれども、それを引きずっていては前には進めない。

9月18日の日記

2011年9月18日 日常
苦しんだ先に何があるのか。

苦労をしたとき、それを後から笑えるようなら、その苦労は自分の糧になっているのだと思う。
けれど、苦労をしたことを、振り返ったときに笑い飛ばすことができないようなら、その苦労は自分の経験として蓄積されていない可能性が高いと思う。
あとから苦労を笑い飛ばすことができるのか。それは苦労をしている最中にはわからない。時間がたって、自分のしてきたことを見つめ直したときに初めてわかる。

とりあえず、今現在苦しんでいることを、未来の自分は笑い飛ばしていることを願う。

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