3月17日の日記

2008年3月17日 日常
後悔するといけないから、
例え危険を冒してでも飛び込んでいくことも必要。
たとえ失敗したとしても、それは自分の糧となる。
自分にある程度の余裕があるのならば、
リスクを犯して大きなものを得ようとチャレンジすることに意味がある。
ただし、自分に余裕が無ければ、失敗したときのダメージをカバーできないから、
危険を冒すべきではない。
何かを得ようとするときは、
大概、何かを犠牲にしないといけない。
犠牲にすることは辛いことだけれども、そこは我慢しないといけない。
けれど、それが抑えきれなくなってしまいそうなときはどうすればいいのか。
両立するものではあるかもしれないけど、多分どちらかを失うことになる。
二兎を得ようとしても二兎とも得ることは難しいと言うし。

3月15日の日記

2008年3月15日 日常
一人でいることは好きだけれども、
あまりにも人と話さないと寂しくなる。
マイペースで物事を進めたいが、マイペースを貫くと他人は離れていく。
孤独は好きなのに他人と疎遠になるのは嫌だという、ある意味で矛盾した感情だよね。
何日か前の日記に、コンプレックスはもたなくていい、って書いたけれども、
今の自分はコンプレックスでがんじがらめになっている。
コンプレックスをもつというのは自分に非があるから、なんとかしなきゃなのだが、
どうにかなる気がしない。

3月12日の日記

2008年3月12日 日常
自分で勝手に気持ちを盛り上げるのが一番楽しいのかもね。
他人に何かを期待すると、裏切られたと感じたときの反動が大きいから。
自分の心の中だけで楽しむことにする。
プライドなんかいらない。
コンプレックスだって、もっててもしょうがない。
駄目人間でも特に問題ない。
守るべきものなんて何も無い。
快楽主義で生きるのもいいかもね。

3月9日の日記

2008年3月9日 日常
必死でやっているつもりだが、
どうあがいてもうまくいく気がしない。
闇の中でもがいている感覚だ。
それでも、いつかは光にたどり着けるとおもってやるしかない。
どんなに凹むことがあっても、それを乗り越えていくしかない。
潰れてしまったら、そこでおしまいだからね。

3月6日の日記

2008年3月6日 日常
あー疲れた。
なんだかんだいっても、自分はいない方が良いと言う結論にいきつく。
けれど、周りが幸せそうだからちょっとだけほっとする。
自分の存在は周りに悟らせない方が、全体としてプラスになる。
ちょっと悲しい。

3月5日の日記

2008年3月5日 日常
妙な緊張感を感じている。
細々と、やるべきことが多いというか・・・。
昔は、この種の緊張感に慣れていたというか、
ある意味で感覚が麻痺していた。
今回は、久々の緊張感が新鮮ではある。
それでも、この緊張感は味わいたいものではないな。

3月3日の日記

2008年3月3日 日常
責任が自分にかかっていて、
そして答えを自分でださなければならないのなら、
自分で全てを決定する。
責任がかかっている以上は、どのような決定をするかも支配したい。
自分の決定はどういう影響を与えるのか。
責任がかかっているから失敗は許されないけど、怖いものみたな感じで楽しんでいたりする。

3月2日の日記

2008年3月2日 日常
自分が悩んでいることは真っ当な悩みなのか。
それが知りたくてダイアリーノートをはじめたんだ、確か。
現実に会っている友達に話したらドン引きされるような、腐った人間の考える悩みなんじゃないかと不安だった。
ダイアリーノートを始めて最初の2,3ヶ月の日記は、特にその不安が大きい悩みについて書いていた。
まあ、今では日常で浮かんできた悩みをつらつらと書いている。

3月1日の日記

2008年3月1日 日常
ひさびさにこの感覚を思い出したよ。
無駄に疲れる。気を張らなくてよいところで気を張る。
失敗の責任は全て自分にかかってくるんじゃないかと思ってしまう。
うまくいってもそれが当然とみられる。
ハイリスクノーリターンってやつだ。
今回は一過性のものだけど、これが続くと滅入ってくるんだよね。
自分に価値を持たせなければ、
他人に振り向いてもらえないと思ったほうがいい。
どんなことをしてでも、自分自身の力をつけないと。

2月28日の日記

2008年2月28日 日常
その人は自分を必要としていない。
それでも、その人が喜ぶことをする。
その人の喜びのために、ちょっとだけ貢献できた気がする。その中に自分はいないので、むなしい。
しかし、その人が喜ばせることができたんじゃないかと思うと、何となく自分もうれしい。
単なる自己満足だが。

2月27日の日記

2008年2月27日 日常
言いたくないものは知らないのが花、という考え方に基づく態度は、それなりに理解できる。
そういう互いに干渉し合わないという関係は、
単に冷めているだけなのだからできることなら避けたほうがよいのか、それともドライな関係として肯定されるべきものなのか。
心に余裕があるときとないときで、
自分の態度が変わってしまうというのは、やっぱり人間として腐っているのからなのかね。
心に余裕があれば、愛想笑いなんかは普通にできるけど、心に余裕が無ければ、それが苦痛に感じてしまう。
苦痛に感じても、なるべくばれないようにはしていたが、もしかしたら態度にでていたかもしれない。
愛想笑いくらい、どんな状況でも自然にできないといけないよな、やっぱり。

2月23日の日記

2008年2月23日 日常
自分自身の経験なんて、他人にとってはどうでもいいこと。
他人が興味をもつような結果が残せるなら、自分の経験とか努力とかどうでもよくなる。
結果を出すための過程なんて、何の評価の対象にもならないと考えておいたほうがいい。
ただ、過程を評価してもらえると、心情的にはとてもうれしいのだけれどもね。

2月22日の日記

2008年2月22日 日常
なぜこの日記のタイトルを「メモ」にしているか書く。
理由を一言で言えば、自分の書いたことに対して責任を負いたくないからだ。
もちろん、その日に心の底から思ったことを書いているつもり、しかし、それはただの記録でしかない。
思考なんて時間が経てば変化するし、過去とは違う価値観をもっていたりする。
自分の考えをこの日記には吐き出しているけれども、それで誰かが影響を受けたって、そのことについて責任を負いたくない。
だから、「メモ」として、この日記は自分のための記録だという意味しかもたせていないことを示せるタイトルにしている。

2月22日の日記

2008年2月22日 日常
「こいつには価値がある」と思わせることで他人を振り向かせたい、と考えるのは現金なのかね。
自分の価値を高めて、それによって他人の評価を高めるために努力する、というのは不純な行動なのだろうか。
自分は、別にそれは良いことだと思っていたのだけれど・・・。
考え方によっては、人の価値とは関係なく誰とでも平等に付き合わなければならない、ということになる気もする。
もちろん、人によって何に価値を置くかは変わってくるけど、
価値の大小によって他人に対する思いの差がでるのは許容していいよな・・・。
というか、少なくとも自分は、自分自身が感じている周りの人間に対する価値は人によって違っている、と思う。
それは、人間として歪んだ感覚をもっていることになるのだろうか。

2月19日の日記

2008年2月19日 日常
他人の評価は関係ないと言ったって、他人に評価されてもらえればうれしいに決まってる。
他人に評価されていないと感じれば、へこむ。
そんなものに振り回されてても意味無いんだけどね。

< 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 >

 

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索